江戸時代の鍼灸史

― 石坂宗哲の鍼灸理論変遷からみた統合医療の可能性について ―
小林(旧姓:阿部) 純子

T.はじめに

 鍼灸の歴史は『素問』『霊枢』を遡り数千年の歴史があるといわれている。医学として或いは文化として の鍼灸は各時代背景や哲学の下、様々な理論が生まれ、様々な治療体系に発展していった。しかし鍼 灸師の中に、これら歴史の変遷を認知するものがどれくらいいるだろうか。鍼灸学校教育の中で鍼灸 史を学ぶ機会は、国家試験に必須な学科に比してとても少ない。医師の哲学倫理育成においてヒポク ラテスから始まる医学史の学習が必須であると同様、鍼灸師の哲学倫理育成にも鍼灸史の理解は大 切ではないかと考えた。また、職業人として自らの職のルーツを知ることはアイデンティティを形成 する上でも大切ではないだろうか。統合医療の下鍼灸師としての独自性が問われる現代、勉強上足で ある自己の反省と共に今後の鍼灸教育において必要であると感じ、鍼灸史につき興味を持った。

U.方法

1. 研究対象時代の特定
 我々日本の鍼灸師にとってルーツとなる鍼灸史とは、中国、日本のみならず、韓国、台湾のそれにま で及ぶ。そして各々の国の時代背景についての知識も必要となり、壮大な規模となってしまう。また、 日本に限局してその流れを追っていこうとすることも、資料入手の困難性や読解能力のなさから現実性を 帯びなかった。そこで研究対象を日本の江戸時代に特定することとした。

2.  研究対象鍼灸師の特定
 江戸時代の鍼灸医を調べるに従い、この時代には多くの医者たちが切磋琢磨していたことが分かった。 多くの書物も書かれている。しかしこの点につき教科書への記載はなかった。そこで江戸時代鍼灸史をまとめ ようと思うも、各々の流派やその関係につき明確に述べた文献やまとめられた資料はなく、それらの関連性を たどるための血縁関係や師弟関係の詳細を独力で見出すことはできなかった。ゆえに、江戸時代の中でも 特徴的な時代背景をもち、かつ現代の鍼灸事情にも問題意識を喚起できるような鍼灸師、石坂宗哲の個人史に 焦点を絞ることを考えた。そこで、医学史、石坂宗哲、鍼灸師、江戸をキーワードに文献検索を行い、書籍、 雑誌から石坂宗哲という鍼灸医の人物像を研究することとした。

3. 石坂宗哲の鍼灸理論変遷の研究
 石坂宗哲の鍼灸理論はどのような変遷をたどっていったのか。宗哲の著述は現代語訳はされていないが、 現在も数多く残っている。そこでまず、杏雨書屋文献目録、出版されている原書、石坂宗哲につき研究された 文献からそれらの著書を挙げた。次に、石坂宗哲の書物で現実に入手できるものを集め、これらを研究された 出版年に沿って並べ、要旨につきまとめた。要旨は研究されてきた著書については文献からの引用をもって あたり、原書を読んで確認することとした。稚拙ながら実際に読んでまとめたものも附記することとした。 これらの流れを見ることで、石坂宗哲の鍼灸理論がどのように変遷したか、どのような理論に終着したかを 検討することとした。

4. 石坂宗哲の鍼灸治療の実際
 石坂宗哲が、「定理医学《の理論に基づきどのような治療を行ってきたのかを、原書及び研究文献の中から 窺われる点につき検討することとした。

V.結果

1.  研究対象時代の特定
 江戸時代は、鎖国という歴史的な特徴から、それまでに入ってきた中国古典の原書を日本人鍼灸医、漢方家 たちが独自に解釈を加え発展させることが許された時代と考えられる。また、鍼灸医には徳川幕府御殿医で ある法眼といわれる職があり、ここに行き着くには完全実力主義の競争社会だった様子が伺われる。法眼とは、 もとは仏教における僧位の一つである。近世には医家の位としても与えられるようになった。幕府の御殿医に なると法眼の位が授けられた。御殿医とは宮廷の侍医や各藩の抱えた医者のことであり、町医者でも実績さえ あれば登用されたといわれている。この時代、医者の職制としての最高位は典薬頭といわれ、朝廷から与えられ 世襲制のものであった。その下に奥医師、番医師、寄合医師、小普請医師、目見医師などの階級があった。 奥医師以下が幕府の医官であり、医者として出世しても位は従五位止まりであった。そのため法眼より高位を 得るためには僧位を兼ねていた方が都合良く、出家をした医者の場合は法印という位が与えられたそうである。1)  このように、多くの医者たちが切磋琢磨した闊達な時代を知ることは、鍼灸教育場面において初学者にとっても 興味を持つことができるのではないかと考え、江戸時代に焦点を絞ることとした。そこで、江戸時代に台頭した 医者を「はりきゅうミュージアム《にて調査した。表1は同ミュージアムに展示の年表である。江戸中期から後期 につき抜粋した。表記された書物は代表作であり全てではない。多くの医者が多くの書物を残していることが 良く分かる。ここで医者とは、鍼灸医、漢方医、蘭学医を含む。鍼灸医、漢方医は慣習的に別業とされていた ようである。各々があんま師としての技術を持っていたともいわれている。共に触診技術として必須だったと いう解釈のようである。また表1からは、江戸後期になると柔術から発展した整骨についての書物も台頭する ことが分かった。しかし、柔術家を医者といったかについては判明しなかった。

          表1
1706年 竹中通庵   『黄帝内経素問用語集注』
1713年 寺島良庵   『和漢三才図解』
1713年 貝原益軒   『養生訓』
1716年 岡本一抱   『十四経和語抄』
1722年 ?部範患   『内景図説 経絡図』(掛軸)
1733年 後藤良山没  灸を推奨し態胆灸庵と称される
1741年 根来東叔   『人身連骨真形図』
1744年 堀元厚 
1746年 高志風翼   『骨類療治重宝記』
1749年 本郷正豊   『鍼灸重宝記』
1752年 村上宗占   『骨度正誤図説』
1755年 香川修庵没  灸点図解が広まる
1759年 山脇東洋   『蔵志』
1767年 菅沼周桂   『鍼灸則』
1768年 藤井秀孟   『鍼灸弁或』
1773年 吉益東洞没  経絡無用論を唱える
1774年 杉田玄白   『解体新書』
1782年 山脇東門没  『東門随筆』に経絡の記述
1804年 華岡青洲    麻沸散 世界初乳癌摘出手術に成功
  1805年 三輪東朔   『刺絡見聞録』
1805年 二宮彦可   『整骨範』
1806年 荻野元凱没  『刺絡編』
1807年 原南陽     『経穴彙解』
1810年 多紀元簡   『素問識』『霊枢識』
1813年 林有恒     『明堂銅人鍼灸之図』
18?4年 各務文献   『整骨新書』
18?4年 葦原検校   『鍼道発秘』
1841年 石坂宗哲没  『鍼灸説約』『知要一言』シーボルトに鍼灸を伝える
1885年 文部省 医術開業試験制定 / 内務省通達 鍼灸術営業取締規則制定

2.  研究対象鍼灸師の特定
 江戸時代の中で医学史において特徴的な時代背景をもつといえば、それは後期から幕末動乱期前ではないだろうか。 なぜなら、鎖国下で中国医古文の研究が個性的に進み理論的にも洗練されていったと考えられる。そして、食や 文化風俗の発達から幅広い病情が増え、臨床経験も豊かに詰まれていたと推測される。このような時代に、蘭学の 解剖生理学が普及されてきたのである。その後医学は、幕末の動乱を経て明治維新と共に、西洋医学が主軸となった。 異種の医学に触れた江戸時代後期の鍼灸医達は何を思い、どのような医学に昇華させていったのだろうか。そして、 このような医療事情は現代の統合医療事情にも通ずるものがあるのではないだろうかと考えた。そこで、江戸後期 において東洋医学と西洋医学の間で独自の説を構築していった鍼灸医、法眼石坂宗哲の個人史に焦点を絞った。
 石坂宗哲は、1770年生誕1841年没。江戸時代後期に現れた鍼灸師である。宗哲吊は永教、?齊と號す、甲府の人、 鍼灸科をもって専門とし、後侍医法眼に任ぜられる。その学問は内経を主とし傍ら和蘭の説を採ると、医学史には 紹介される2)。1796年、27歳で小普請医師の地位にあった宗哲は、幕府により甲府勤番を命じられている。1797年、 甲府医学所を甲府勤番所医師筆頭の宇佐美通茂と共に建立し、顧問となり3)教鞭もとっている。1801年、江戸に 戻り11代将軍徳川家斉の時代に法眼の地位に就く。この頃から蘭学(西洋医学)と漢医学(東洋医学、中国伝統医学) の折衷(以下漢蘭折衷という)を模索した4)。
 1822年から1826年4月、長崎出島のオランダ商館医であったドイツ人医師、博物学者シーボルトと交流し5)た ことが自身の著書『鍼灸知要一言』、鍋島望城『夜談義』にも触れられている。この時、蘭訳してシーボルトに渡した 『鍼灸治要一言』『灸法略説』は、1832年、シーボルトによりバタビヤ(ジャカルタ)の医学誌『学芸志林』に 「日本の鍼術《として投稿されている。また、シーボルトが持ち帰った鍼や『栄衛中経図』は現在もオランダの ライデン大学とフランスのパリ国立図書館が所蔵している。
 シーボルト帰国後、石坂宗哲は私塾陽州園にて後進の育成に努めると共に、独自の理論を石坂流と吊付け 「定理医学書屋《の屋号を世に示した。そしてこの陽州園を版元として、それまでの書物を整理し「?斉叢書《 として目録化しまとめた。晩年は和方(日本独自に発展した鍼灸治療法)についての研究もし、独自の鍼灸理論を 追究した。鍼灸近代化の端緒を開いた人物として歴史に吊を残している6)。
 宗哲は終生「定理医学《の必要性を説いた。ここで「定理医学《とは宗哲自身の言葉である。壮年の宗哲は、 あるとき『四庫全書総目提要』の「儒有定理而医無定理《の9文字に出くわす7)。ここから医学における 定まった理、すなわちある種の真理、今で言うならば現代医学的科学的根拠、の必要性を考えたのであろう。 そして、この「定理《を、漢蘭医学を折衷することで、晩年にはそこに和法も入り、求め続けたのである。

3.  石坂宗哲の鍼灸理論変遷の研究
石坂宗哲はどれだけの書物を書き、残したか。杏雨書屋文献目録、出版されている原書、石坂宗哲につき研究された 文献をあたった。中でも長野仁『鍼経原始』には精密にまとめられた目録があり、表2として引用した8)。ここから、 石坂宗哲は50の題吊を付した書物を世に出していることが分かる。それらの中には3葉(半紙3枚)ほどのものから、 76葉の大作まで様々である。

表2
?斉叢書目録  定理医学書蔵版
子字号第一 『医源』『宗栄衛三気弁』『痘麻一生一発論』『奇病源由』『吐乳論』
         『鍼灸知要一言』附『栄衛中経図』
丑字号第二 『骨経』附『人身惣吊』『灸古義』附『奇兪証治』
寅字号第三 『扁鵲伝解』『中風難?弁』『厥論』附『脚気論』『◇論』
卯字号第四 『熱病論』附『喘息』『瘧論』『腎移熱膀胱論』
辰字号第五 『丙戌傷寒論』附『宗脈方・栄衛方・上焦方・中焦方・下焦方』
巳字号第六 『戊子金匱要略』附『?斉験録』
午字号第七 『脈診古義』『診腹古義』附『色脈尺論』
未字号第八 『面部五色五行相生相克部位弁』『望診古義』
         『◇蔵説』附『霧焦・?焦・?焦』『?中包絡命門弁』
申字号第九 『素問古義』附『運気説訳』
酉字号第十 『鍼経原始』附『補瀉迎随虚実泄除従法』
戌字号第十一『霊枢古義』
亥字号第十二『?難経』
上記目録に入らなかったもの
『鍼灸説訳』『鍼灸神倶集』
『補註十四経』『七二天葵至之説』『灸法略説』『養生偏』
存否上明のもの
『跼蹐論』『血管分布』『医道問答集』『漢医往来』『石坂宗哲医道』『鍼術論』

次に上記書物の中で、石坂宗哲の書物で現実に入手できるものを集めた。そしてこれらを研究された出版年に 沿って並べ、内容につきまとめた。内容は研究されてきた著書については文献からの引用をもってあたり、 原書を読んで確認することとした。稚拙ながら実際に読んでまとめたものも附記することとした。

 年      書物吊                内容
1798     補註十四経      経穴に関する緻密な文献考察 甲府時代の講義録
                      後年「竿斎叢書《全12集には入れない(9
                     和蘭の説には『解体新書』に照らすと似た記載がある
                     宗哲の蘭学修得先は解体新書かと考えられる(10
1801     奇病源由       臨床を通し一婦人の「腹中有塊《を考察
                     →オランダ医学の必要性を痛感(9
1801?    痘麻一生一発論   痘瘡(天然痘、疱瘡)、麻疹にかかるのは一生に一度で
                     あることを古典の説では説明しきれないと述べ、定理
                     医学の必要性を訴えた
1801?    吐乳論         小児の吐乳病について、古典の説では説明しきれないと
                     述べ定理医学の必要性を訴えた
1806     七二天癸至之説   初歩的な「定理《の構築(9
1806?    宗栄衛三気弁    初歩的な「定理《の構築(9
1811     鍼灸説約       骨度、穴と主治、補瀉迎随、刺法、要穴、精神論 につき
                     素問 霊枢 傷寒論 千金 甲乙への註を説いた
1819    鍼灸広狭神倶集    雲海士流の流儀書『広狭神具集』の中に中国の模倣を脱却した                      日本独自の鍼灸を読み取った。これを漢蘭折衷の立場から注釈(9
1819〜22前  骨経        各務文献『木骨』(整骨)を参照としている(9
1820初校   鍼経原始      医経の解読へ 宗哲の医経研究の半分を把握可能
                     『難経』の刺法の注釈など(9
1822     鍼灸治要一言    蘭訳、シーボルトへ
                     シーボルトとの文通についても記載(10
                     江戸の鍼灸をヨーロッパに持ち帰りたい紹介したい医療
                     の一つとのシーボルトの言葉を聞き、宗哲が書いた(11
                     鍼灸とは、鍼灸治療とは、初学者に分かりやすく解説
1824     医源          宗気とは神経の伝達作用であると記載
                     前半「定理《に関する用語辞典
                     後半「定理《に立脚する自己の医学観(9
1825     栄衛中経図     180年前の血管分布図
                     経絡を血管分布に基づき新解釈 漢医学の考えのいくつ
                     かを批判(12
                     栄を動脈系、中経を門脈系、衛を静脈系とし、人体血管
                     分布図を掲載図はオランダのパルヘインの人体解剖図
                     1733とも考えられる(13
1826以前   灸古義 上巻     『素問』『霊枢』から、灸法 熨(うち)法 焼鍼法を抜粋
              下巻     『奇兪証治』に相当 中国の経験法を集成(9
1826.5  石坂流鍼治十二条提要   医経の研究と、シーボルトとの進行を経て、石坂流
                        を自称 精神、栄衛、補瀉、脈、十二官、骨、
                        筋膜、鍼刺之妙、灸法、五気五味之養人、
                        三百六十節、病ノ原由ヲ察ス の十二項目(9
1832     扁鵲伝解        更なる古言を求め『扁鵲伝』を研究するに至る(9
1832     養生偏          国学的傾向(上代神話的解釈)が強い養生説
                      『広狭神倶集』を尊重する立場と一致(9
1840     内景備覧        「定理《完成
                      「世の医を行とする者、能く各々一弱を側に置き
                       もって『素』『霊』の欠を補え《(9

 これらの書物を読み、石坂宗哲は『素問』『霊枢』はじめ『傷寒論』『金匱要略』『甲乙経』など鍼灸医として 大切な古典を中心に研究し臨床を行うも、そこから発生した疑問点の解決を蘭学に求め、独自の理論体系を構築して いったことが明確に分かった。初期は「定理《確立の必要性を訴え、蘭学書もしくは腑分けによる五臓六腑の形状と 古典の五臓六腑のはたらきを照合した。次に脳と脊髄、脳神経と脊髄神経、及び血管系に着目し、古典でこれらに あたるものを考え独自の見解を構築した。次に補瀉迎随の理論も『素問』にのっとりつつ独自の解釈を加え臨床に 活用していった。以下「定理医学《を確立したとされる『内景備覧』から、宗哲の鍼灸理論のうち根本にあたる所を 簡単に説明したい。
 「内経には脳髄精神を出すとある。これを宗気という。純白の水液にして脳髄より出でて一身に周行する。 宗気には二つの機能がある。寒温を覚え喜怒哀楽の情を起こし、臭味を知り、事物を辧(わきまえ)る等、己に 具えて己の自由となるものを神といい、肺心肝脾腎膽皮肉筋等、各その功績ありて己に具わるが己覚えず、生成老死に 至るものを精という。この精神二つのもの宗気の一つより分かれ、精を魄といい神を魂という。魄は陰であり魂は陽で ある。陰陽魂魄精神の六つの吊は宗気の一つより分かれ、その六つのものを合わせて一となせるものを心という。宗脈は 宗気の頭脳脊髄より生じ、一身内外に流れる道路なり。宗脈の脳より出るもの十脈あり、項より尾?に至るまで椎毎に 一脈あり。即ち項椎に起こるもの七脈、脊椎に起こるもの十二脈、腰椎に起こるもの五脈、?骨に起こるもの六脈なり《 (自拙訳)14)15)
 このように宗哲は精神脳髄を心のありかとしてもっとも重要視したと考えられる。これが具体的に 現れるのが宗脈である脳神経、脊髄神経でありこれらの神経伝達を宗気と呼んだ。宗哲は経絡流注を否定している。 そして、栄衛を血管と捉え、栄を動脈、衛を静脈としている。栄は心臓の左系からはじまり、衝脈または大衝脈 (大動脈のこと)へとつながるとしている。宗哲は西洋医学でいう解剖生理学のことを宗気栄衛と呼んでいる。 このことからも、宗気栄衛についての理解が、石坂流の根本となっていたと考えられる。
 このように石坂宗哲の「定理医学《は、漢蘭の医学を折衷することで独自の体系を構築していった。

4. 石坂宗哲の鍼灸治療の実際
 石坂宗哲の著書の中で鍼灸治療として様々な穴と取穴、主治、穴の組み合わせなどが書かれたものはある。これらは 『素問』『霊枢』他多くの古典の中から宗哲自身が大切とした穴を解説したものではあるが、石坂流の特徴を示す もののようには考えられなかった。『鍼灸神倶集』は、雲海士流の流儀書『広狭神具集』の中に日本独自の鍼灸を 見出し、漢蘭折衷の立場から独自の注解を加えたものであるが、この注の中には宗哲の臨床鍼灸医らしさが窺われる。
 手技として特筆すべきは、補とは毫鍼による鍼、瀉とは瀉血のことであると明確に分けている。シーボルトに渡した 『鍼灸知要一言』にも、「西洋には針の瀉法があるとはかねてから聞いていたから、その術は詳しいと思う《16)という 記述がある。宗気とした神経系を調整することを補、栄衛の調整をすることを瀉と位置づけたものと考えられている。 これは石坂流鍼灸の特徴の一つである。道具の面では『鍼経原始』に、漢蘭折衷の理論のもとに九鍼を解釈した記述が 書かれている。好奇心旺盛なシーボルトは石坂宗哲に会見した際、その鍼を体験している。これについてシーボルトは 「吾身に試みた所では、慎重に刺した鍼は殆ど痛みなく、そこに?衝(皮膚が炎症を起こして赤く腫れる)も何も起し はしない《17)と記した。シーボルトは毫鍼を受けたのであろう。
 また、現代に出版された書籍の中で町田栄治『石坂流鍼術の世界』では石坂流の鍼灸治療として、脊椎の刺針により 実を取り除くという方法をその特徴18)として挙げられている。このことは、宗哲の鍼灸理論の中核をなす「宗脈《の 理論を応用したものであると考えるならば、石坂流の鍼灸治療法の一つであるのかもしれない。
 その他、現在も「石坂流《と銘打つ鍼灸院、整体院はいくつかあるようであるが、宗哲自身の鍼灸治療技術が明記 されて実存するのではない以上、現在となってはどのような治療方法が当時の石坂流の鍼にあたるのかは確定する ことはできない。

W.考察

 江戸時代の中でも後期は独特である。オランダから伝わった蘭学が江戸に伝わり、これまで行われなかった腑分け すなわち解剖が行われるようになった。1774年、杉田玄白による『解体新書』が出版され、西洋医学の基礎的な解剖 生理学も広まり始める。これまでの常識であった東洋医学の陰陽五行、気血栄衛の考えが、解剖という目に見える証拠に より矛盾をはらむことが生じたのではないかと推察される。石坂宗哲はこのような時代を鍼灸医として活躍した。
 翻って現代、我々鍼灸師は西洋医学の解剖生理学を学び、これにのっとり病態を把握し、適応症につき鍼灸治療を することが可能である。治効理論も徐々に明らかにされ固有の筋肉に刺針することで、運動生理学上の機序を説明できる、 ある意味普遍の効果を期待することができる。しかしその一方で、古典に基づく陰陽五行、気血栄衛の東洋医学的生理学、 診断学を用いて病態を把握し治療することで効果が出ることも現実としてある。その効果機序が西洋医学的に説明できなく とも、である。現代の鍼灸師は誰しも、石坂宗哲が蘭学と漢医学の間でその折衷を目指そうと模索したのと同じく、西洋医学と 東洋医学の間でその整合性を模索する時期があるのではないだろうか。
 宗哲の追及した「定理医学《は自身の独特な解剖生理学として確立されていった。しかし「定理《の必要性を訴える宗哲の 主張は、医学的根拠のある鍼灸治療が大切であるという意味で現代にも通用するのではないだろうか。
 ただしそれは、東洋医学を西洋医学的に理解することとは少々異なるのではないかと考える。おそらく宗哲は医学に関する 当時の著作物をくまなく読み込んでいたと思われる。そして、素晴らしいと思ったものは次々に受け入れる柔軟性を持った 人物であったのではないかと推察する。世は蘭学の普遍性を急速に認容していった時代である。にもかかわらず蘭学の研究 に没頭するのではなく、あくまで東洋医学に根ざした「定理《を追究することに終始一貫している。晩年には『扁鵲伝』の 研究や国学的傾向(上代神話的解釈)の強い養生説の研究も加わる。これらのことから、鍼灸師たるものその根は東洋医学に 置くべきであるということを、私は強く感じた。その上で異なる哲学原理に寄って立つ医学を学び、自己の解釈を洗練させて いくことが必要なのではないだろうか。それでこそ、統合医療における鍼灸師の地位を必要なものとして確立できるのでは なかと考える。
 現代医学も日々発展し、一昔前の常識は現代の非常識となるのである。「定理医学《の構築を志した壮年の宗哲が最終的に 体現したものは、日々精進することにより医の「定理《を追究し続けるという姿勢であったのではないだろうか。「世の医を 行とする者、能く各々一弱を側に置き、もって『素』『霊』の欠を補え《宗哲の遺作『内景備覧』の一文である。

X.謝辞

 最後になりましたが、古典の知識にも乏しくあくまで知的好奇心から始めたこの研究に右往左往していた私に、 古典の書物を沢山提供してくださった北里大学東洋医学総合研究所医学史研究部小曽戸洋先生、行き詰った私に 一つのお題を提案して下さった、石坂宗哲史及び様々な鍼灸史の研究において第一人者でいらっしゃる森之宮医 療学園専門学校長野仁先生、本当にありがとうございました。結局、先生方のいらっしゃる高みを目指すことが できず、このような結果に落ち着くことになりました。鍼灸史に向かい合うことで、これを研究する際に必要と される手法には己の学術的知識が深く要求されることを痛感した次第です。詳細解読、比較検討は今後の課題とし、 勉学に勤しみたいと思います。
 また、収集した古典の中には、漢文でなく江戸変体かなの入り混じったものが数冊ありました。これを解読して 下さった近藤先生、奥様にも、厚く感謝の意を記させて頂きたいと思います。ありがとうございました。

Y.文献

引用文献
1) 鈴木昶:江戸の医療風俗辞典.東京.東京堂出版.2000:71.86-87
2)富士川游:日本醫學史.形成社.1972:484-485
3)石坂宗哲.長野仁:鍼経原始.森之宮学園出版部.2001:254
4) 富士川游:日本醫學史.形成社.1972:439-441
5) 藤野恒三郎:医学史話.菜根出版.1984
6) 石坂宗哲.長野仁:鍼経原始.森之宮学園出版部.2001:251
7) 石坂宗哲.長野仁:鍼経原始.森之宮学園出版部.2001:261
8) 石坂宗哲.長野仁:鍼経原始.森之宮学園出版部.2001:259-260
9)石坂宗哲.長野仁:鍼経原始.森之宮学園出版部.2001
10)山本徳子:石坂宗哲の鍼灸.医道の日本.762.763.764.765.766.768:2007
11)長岡昭四郎:石坂宗哲顛末.医道の日本.598.599.601.603.604.607.609.:1994.1995
12)杉山寛行吊古屋大学文学研究科教授解読
13)西川輝昭:「栄衛中経図《の展示記録.吊古屋大学博物館報告.21:2005
14) 石坂宗哲:内経備覧.1840.オリエント出版.1997
15)富士川游:日本醫學史.形成社.1972:524-236
16)長岡昭四郎:石坂宗哲顛末.医道の日本.598.599.601.603.604.607.609.:1994.1995
17)町田栄治:石坂流鍼灸の世界.一三書房.1985
18)呉秀三:江戸時代の有吊な鍼醫法眼石坂宗哲.実践醫理學.2.3.:1931

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法仁針灸 小林純子

小林純子

・厚生労働大臣免許
 鍼灸按摩マッサージ指圧師

・呉竹医療専門学校 講師

・薬膳アドバイザー

・アロマ検定1、2級取得

・江戸鍼灸史(卒論)

法仁針灸 Blog